『チ。』を観ていて考えたこと
『チ。―地球の運動について―』を観ていて、 最も印象に残ったのは 「誰が正しいか」でも 「史実がどうだったか」でもありませんでした。
それは、思想そのものが非常に不安定で、曖昧なものとして描かれているという点です。
12歳で死ぬラファウと、 アルベルトの家庭教師をしていたラファウ。 同一人物なのか、別の存在なのか。 作中では、あえてはっきりと断定されていません。
アルベルトの悩みを聞いていた司祭の声が バデーニに似て聞こえたことも、 「誰が言ったか」よりも 「その考えがどこから立ち上がったか」を 曖昧にするための演出に見えました。
歴史は一直線ではなく、揺らいでいる
アルベルトが生きる世界線は、限りなく史実に近い。 一方で、12歳で死んだラファウの世界線は、 少しだけズレているようにも感じられます。
けれど、コペルニクス以前の世界は、 本来とても曖昧なものでした。
未来が確率的に揺らぐように、 過去もまた、確率的に揺らいでいた。 『チ。』は、その収束の過程を描いている物語だと感じました。
思想は、誰か一人のものではない
作中では、移動民族の子が資本主義的な考えを口にし、 それに対する反証として、 共産主義的とも取れる考えが示されます。
それらは決して「新しい思想」ではありません。 きっと何人もが、何度も思いついてきた考えです。
ただ、ある時代・ある場所で スタンダードとして採用されたときにだけ、 「誰が言い出したのか?」という問いが生まれる。
思想は量子のように出たり消えたりする
思想は、まるで量子のように 出たり消えたりを繰り返します。
あるときは異端とされ、 あるときは忘れ去られ、 そしてある瞬間、歴史の中に具現化される。
『チ。』は、そのどちらが正しいかを断定しません。 ただ「思想は最初から確定したものではない」 という事実だけを静かに示しています。
権力と暴力、そして怒りの構造
異端審問官ノヴァク。 疑問を持ちながら従う若い審問官。 疑問を行動に移して命を落とす者。
親子の司教は、 恨みや金のために解釈を簡単に変える。
異端解放戦線の過激な暴力も、 最初から生まれたものではありません。
そもそも教会側の暴力と弾圧が先にあり、 それに対する反発として生まれたものです。
ただし、暴力は暴力として跳ね返ってくる。 フライは、思想の被害者としての象徴でした。
怒りは、思想と同じ構造をしている
怒りもまた、思想と同じ構造をしています。
怒りは最初から確定した感情ではありません。 その直前には、必ず 曖昧で揺らいでいる時間があります。
けれど人は、その揺らぎに耐えられず、 「正しい」「許せない」と 感情を確定させてしまう。
私が怒りそうになったときにしていること
私が実際にやっている対処は、とても単純です。
怒りそうになったら、100秒だけ待つ。
反論しない。 正しさを決めない。 評価もしない。
心理学的に見た実質的な効果
怒りは扁桃体の反応であり、 そのピークは長く続きません。
100秒待つことで、 感情のピークが下がり、 考える脳が働き始めます。
今日の要点
怒りを確定させない時間を持つこと。
思想が揺らぎの中から形を持つように、 怒りもまた、確定させなければ消えていきます。
呼吸を整えることで、 思考の余地も自然に戻ってきます。
今日はここまで。 調身・調息・調心。 できるところから、静かに続けていきます。

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